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神社について

神戸宗社

〒513-0801 三重県鈴鹿市神戸2丁目18−28
TEL 059-382-4897

駐車場のご案内

鳥居の脇からお車でそのまま境内に入っていただき、奉燈提灯前の適当な場所に駐車してください。
祭事等がない通常の場合、10台程度は駐車していただくことができます。

御社殿

神社内の御本殿の様子。手前には賽銭箱がある。

御本殿

人皇十一代垂仁天皇之御時かたじくも笠縫村より伊勢之國五十鈴川の川上に鎮ノ御時に立置かせ給ふ御宮所として其の時より鎮座し給ふなり。

神戸神社の慰霊殿

慰霊殿

慰霊殿には、特定の歴史的背景を持つ121柱の霊が祀られており、訪れる人々は、深い敬意と感謝の意を捧げます。神戸宗社では、御英霊に縁ある10月の例大祭中初日に行われ、地域の皆様が集まり、故人の冥福を祈ります。また、慰霊殿は、歴史の教訓を伝える場でもあり、平和の大切さを再認識する機会となっています。訪れることで、故人への思いを深めるとともに、今を生きる私たちの使命を考える大切な場所です。

神戸宗社の伏見稲荷神社。赤い鳥居井がとても大きく入り口にある。

伏見稲荷神社

伏見稲荷神社は、主祭神である宇迦之御魂大神を祀り、商売繁盛や農業の守護、家内安全などを願う多くの参拝者に親しまれています。参拝者は、鳥居の下をくぐりながら、神様に感謝の気持ちを捧げつつ、心静かに歩を進めることができます。

御神域

神戸宗社の御神木に縄が巻かれている

御神木

神戸宗社の奉燈提灯が100個程ならんでいる

奉燈提灯

御造営奉賛御芳名

兼務社

阿自賀神社(安塚町)三重県鈴鹿市安塚町386

当社は往古より阿自賀神社と称し、中昔よりは高賀神社とも申し来ったが、御維新以来神明社と改称し、旧大白社を高賀社と改定した。しかし、これは皆奉仕の神職が行ったことであり、神明社と称するのは非であると述べ、さらに当村の儀は、往古開墾主阿自賀徳兵衛と申者の鎮守なりと言い、中昔今の地にうつし奉るに依て字新宮と称す。一日高賀社と称すは祭神高御産霊神を誤て高賀社と申すなり。」と記している。『伊勢式内神社検録』には「(前略)依テ按スルニ神戸驛ノ南二安塚村アリ。舊ハアヅカト唱ヘタリケム、其アヅカ八本社號ノアジカヲアズカ二通ハシ(後略)

八幡神社(地子町)の外観風景

八幡神社(地子町)三重県鈴鹿市地子町454

もとの当八幡神社の創始事情や年代は不詳であるが、近郷の崇敬篤い社であった。明治40年4月10日、官許を得て安塚町鎮座の阿自賀神社に合祀されたが、昭和10年10月1日、氏子の総意によって社殿、境内等整備の上、元の社達に分祀奉斎したが、公認には至らなかった。昭和26年3月15日に至り、宗教法人法による神社本庁所属の神社として承認を得、現在に至っている。

矢椅神社(矢橋町)の外観風景

矢椅神社(矢橋町)三重県鈴鹿市矢橋1丁目19−29

当社の創祀については詳に出来ないが、寛文2年(1662)の棟札に「八王子」とあり又『三国地志』も「俗に八王子と称す」と記しており、八王子社と呼ばれていたものと思われる.当社は、延喜式内社とされ、明治2年(1869)明治天皇御東幸のみぎり奉幣代拝の扱いをうけた。明治41年無格社山神剣1社を合祀した。宝物等 種族1枚(寛文2年《1662》正月在銘)御戸帳1冊(有楢川家奉納)御衣替神事(おきぬがえ)

矢椅神社(柳町)の正面入り口風景

矢椅神社(柳町)三重県鈴鹿市柳町543

当社の創祀については詳かにし難いが、近世における当社の呼称は、所蔵の棟札には「柳村森天王」(承応2年)、「大梵天王」(寛文11年)・延宝9年・宝永4年とあり、森天王或いは大持天王等と呼ばれていたことが判る。明治6年(1873)村社に列格。大正3年(1914)近郷の無格社中島神明社他10社を合祀してゐる。文化14年(1817)8月建立の社標には、式内社たることを表示した記載かある。宝物等 棟札 4枚 (承応2年《1653》・寛文11年《1671》・延宝元年《1681》・宝永4年《1707》)

神戸城址

本多神社旧跡地

神戸城は天文20年(1551)神戸具盛によって築城され,のちに織田信長の子信孝が安土城にならって壮大な天守閣を築いた。現在は天守台の石垣と堀だけが残っている。◎織田信孝(1558~1583)伊勢神戸城主・神戸具盛の養子となる。父は織田信長。父の死後は兄信雄とともに後継者たらんとして秀吉側の秀信と争ったが敗れ,柴田軍に属した賎ケ岳の戦にも勝利なく,秀吉の意をうけた信雄から自刃を命ぜられ,尾張知多郡内海の野間正法寺で果てた。

伊勢参宮街道

常盤町 見附

伊勢参宮街道の宿入口は常盤町(現在の神戸8丁目)にあり、木戸と番所が設けられていました。この場所は旅籠屋が最も多く、早くから飯盛り女を置くことが許可されていました。江戸初期にはすでに飯盛り女を雇っていた茶屋が8軒存在していたとされています。

地子町 大燈籠

伊勢街道を進むと、地子町(現在の神戸地子町)の宿の出口にある六郷川には幸橋が架かり、その手前には木戸が設けられていました。現在でも神戸2丁目・神戸8丁目の旧伊勢参宮街道沿いには古い町並みが残っています。この地域では伊勢神宮に近いことから妻入りの家屋が多く見られるのが一般的ですが、ここではほとんど見かけません。伝統的な様式の家屋は主に切妻造りの平入りで、中2階建てが多く、袖壁を備えた家も数多く存在します。また、街道筋が湾曲したり「く」の字形に屈曲しているのは、城下町特有の視界を遮るための工夫でしょう。